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海の青さを散りばめたように、透き通った神聖なる空が広がっていた。筋状の雲が波のように空を揺らす。由稀は額に浮いた汗を袖で拭い、無防備な青さに見とれていた。
「今日もいい天気だなぁ」
神殿を吹き抜ける風は、潮を孕みわずかな粘り気を帯びていた。由稀にはその生々しさがむしろ爽快に感じられる。誘われるように腕を上げて伸びた。
「さぼってんじゃねぇよ」
後ろから足蹴にされて、由稀はたたらを踏んだ。振り返って睨みつけると、紅が本を抱えて立っていた。いつになく真面目な紅の様子に由稀は返す言葉を失った。混じりけのない黒い瞳で申し訳なさそうに頭を下げ、由稀は足元に置いてあった本を抱えた。鼻先に本の背表紙が当たる。潮風とは違った湿気の匂いが喉に刺さった。先を進む紅を追う。
「しかしさぁ、どう考えても無理だよ。地下書庫の本を移すなんて」
「俺に言うな。言うならあの鬼畜に言え」
「お前、親に向かって……」
由稀は紅が真面目なのではなく不機嫌なのだと悟った。口を噤んで神殿の階段を降りる。
「イイコちゃんだねぇ、由稀くんは。それより問題は誰の部屋を犠牲にするかだろ。会議室と空き部屋だけじゃ足りねぇのは目に見えてるんだからな。あ、俺は断固として拒否るから、よろしく」
「うわー、すげぇ自己中」
由稀は本の横から足元の階段を覗き、一歩一歩踏みしめて降りる。門を抜けて、風のない静けさに由稀は物足りなさを感じる。水路のそばでは羅依が荷車にもたれかかるように座っていた。二人の姿を見て、涼しい目元を尖らせる。
「遅い」
「いや、だって結構重いぞ。しかも前があんま見えないしさ」
「だからお前らにさせてるんじゃん」
快活に笑いながら、羅依は立ち上がり服を払った。
「だったら夜上とか呼んでください」
「あ、ここに順番に乗せて」
由稀の呟きは当然のようにかき消される。紅は荷台に本を置き、由稀の肩を叩いて先に神殿へと戻っていった。由稀はため息混じりに本を置く。
「まったく、何も決まってないのに運ぶのだけ急いだって、なんにも」
口の中で呟いて、由稀は神殿へと足を向けた。視界の隅で水路がきらめく。由稀の脳裏に一つの思いつきがよぎった。
城付きの侍女が血相を変えて食堂に飛び込んできた。羅依は食事の最中だったが、半ば強制的に自分の部屋へと連れられた。何を聞いても大変だとしか答えない侍女に苛つきながらも中庭に面した部屋へ向かうと、由稀と紅が忙しなく本を運び込んでいた。羅依はあまりのことに声も出ず、慌てて由稀の腕を掴んだ。
「ちょ、ちょ、ちょっと!」
「あー、こら。重いもん運んでんだから危ねぇだろうがよ」
由稀は顔をしかめ、体を捻って羅依の腕を振り払った。いつになく強引な由稀の態度に羅依は思わず身を引いた。
「おい、由稀。これどこに置く」
「えーっとな、それは」
奥から飛んだ紅の声に呼ばれ、由稀は何事もなかったように本を抱えて部屋に入っていく。羅依は我に返った。
「そんなまともな反応求めてねぇよ! なんなんだよ、これは!」
「見りゃわかるだろ。本を運んでるんだよ」
紅が顔を突き出して言った。口元や頬は引き締まって羅依を見下しているのに対し、鮮やかな新緑の瞳は小さな子供のように無邪気に輝いていた。羅依が躍起になるにつれて、紅は親譲りの薄い唇で笑んだ。
「貧乏くじご当選、おめでとう」
「ふざけんな。いつあたしが使っていいって言ったよ!」
「そもそも羅依ちゃんの意見は考慮してませーん」
「はぁ? はぁ? はぁ? お前じゃ話になんねぇ。おい、由稀、由稀!」
羅依は入り口に立ち塞がる紅を押しのけて、部屋に足を踏み入れた。ついさきほどまで整理されていた部屋の中は、地下に眠っていた幾多もの本に蹂躙されていた。羅依は呆然としてその場に崩れ落ちた。
「ありえねぇ」
「別に俺らんとこでも良かったんだけど、だってほら、お前の部屋だけ一階だしさ。もう腕がぶらんぶらんするくらいだるいんだよね。階段のぼるとか無理っぽいわけよ」
由稀は優しく微笑んで、羅依と視線が並ぶようにしゃがみ込んだ。
「馬鹿だなぁ、羅依は。俺なりの気遣いってのがわかんないかなー。ちゃんと使いそうな本ばっかり集めたんだぜ」
「そんなのあたしに関係ないだろ。文献調査を頼まれた覚えなんて」
「だから馬鹿って言ったんだよ。誰が使うかよく考えてみろよ。そしたら俺らに感謝することになるって」
「はぁ」
羅依は口を開けて首を傾げた。由稀は紅が本を運んでいるのを横目に確認して、羅依に耳打ちした。
「今夜から瞬と二人きりだね。おめでとう」
体を離すと由稀は羅依の頭を軽く撫でて、爽やかに微笑んだ。羅依はその顔を拳で殴りつけた。
世界は眠りに落ちた。闇は地中の静寂を引きずり出す。空からはたくさんの糸がつるされていた。端が星になって輝く。
羅依は寝台の上で膝を抱え、じっと部屋の中央を見つめていた。華奢で丸みを帯びた机の上には、拷問のように本が積み重ねられ、燭台の炎に揺らめいていた。炎は清浄を吸い込み、燃えかすを吐き出す。時折思い出したように、布を引き裂くような音を立てて己を焼き続けた。
光の届く場所に白い煙がかかる。上へ手を伸ばす炎に巻かれて、煙は上へ引っ張られながら淡くなり消えていく。羅依は膝の上に顎を乗せて、視線をずらした。そこでは瞬が本を読んでいた。炎を受けた肌は揺らぎ、髪は輝いて色を失っていた。手元は忙しなく煙草を弄ぶが、端正な顔には緩やかな時が流れていた。深緑の瞳は精密な機械のように淡々と文字を追った。
天井に目をやると、美しい幾何学模様が靄の向こうに感じられて、羅依は急に疲れを覚えた。炎の踊りに、目が光を避け始めた。羅依は毛布を引き寄せた。横になろうとして吸った息があまりに煙たく、羅依はすぐ横の壁に嵌められた窓に手を伸ばした。
「開けるな」
指先は窓枠に触れてもいなかった。羅依は驚いて手を引いた。瞬は相変わらず本を読んでいる。羅依は非難を込めて瞬を睨んだ。
「今夜は風が強い。灯りが消える」
「だけど空気悪いし」
羅依の言葉に瞬は関心を示さない。羅依は虚しさに耐えかねて毛布へ潜り込んだ。胸の奥が衝動を押さえつけるたびに、体の末端が熱を失っていく。凍えるように縮こまり、羅依は声を殺して涙した。悟られまいと奥歯を噛んで堪えた。歯のすれる歪な音が闇に飲まれた。頬に触れる毛布が温かくやわらかで、羅依はすぐにも寝息を立てた。
夢を見た。羅依は白く固められた道を歩いていた。それは見覚えのある風景のようで、しかしまったく知らない場所でもあった。道の両側には羅依を覗き込むようにして建物が聳えている。赤い建物は踊り、青い建物は笑う。どれもが汚い言葉を吐き出しては、羅依を執拗に責め立てた。振り返ると、羅依が歩んできた道には泥の染みが残っていた。靴裏をどんなにきれいにしても、歩けばまた黒く穢れた。羅依は走り出した。染みが罪になり足元に絡みつく。思うように足が動かず、羅依はもがくように走った。黒い建物が周りを囲み、灰色の腕が背後に迫った。汗が体中を覆う。突っ切る風に肌が冷えた。目の前が朦朧として、羅依は道に倒れこんだ。喉を絞めるように建物は羅依に近付く。羅依は道に手をつき、荒い息を繰り返した。世界から光が失われていく。建物に四方を囲まれ、羅依の周りは闇に満ちた。白く輝いていた道も、受ける光を失い黒く沈んだ。羅依は腕を伸ばす。しかし指先に触れるものが闇か物体か自身かすらわからなくなっていた。飲み込まれていく。その幻想は刹那的で魅力的なものだった。
「ああ」
絶望という希望に顔を上げたとき、鼻先を風が切り抜けた。不躾なほどの光が舞い込む。羅依を取り囲んでいた建物は、横腹を薙ぎ払われていた。温もりが羅依を包む。見上げると、空には水が揺らめいた。光を受けて輝く水面は、羅依の心を締め付けた。胸が熱くなり、羅依は大声を上げて泣いた。手を伸ばして空を掴もうとすればするほど、きらめきは遠ざかった。しばらくして、自分が下へ落ちているのだとわかった。落下の感覚は飛ぶようで、背中に当たる空気の感触は揺り篭のようだった。束ねていた髪が解けて、視界に散らばる。
羅依は目を覚ました。目頭は涙が乾いてかさついていた。頬を清涼な風が過ぎる。見上げると、窓がわずかに開けられていた。端の方で金具を噛ませて固定されている。羅依は半身を起こした。押しのけた毛布の手触りにざらつきを感じた。黒い上着が毛布に重ねられていた。掴み取り、口元に寄せる。甘い煙草の香りがした。
羅依は部屋の中を見渡した。灯りはなく、窓から染み込む夜の光だけが部屋を浮かび上がらせた。羅依は上着を手に寝台から抜け出た。裸足のまま、部屋の中央へ歩み寄る。机の上に積み上げられていた本は床に移されていた。本の横からは数えられないほどの付箋が突き出ている。何かを踏みつけたので拾い上げると、木でできた筆記具だった。羅依はそれを静かに机の上に置いた。そして持ち主に返すように、机に突っ伏して寝ている瞬の肩に上着をかけた。
羅依は椅子に腰掛け、瞬の寝顔を覗き込む。蠱惑的な深緑の眼差しが閉ざされているため、彼の背徳的なまでの美しさはなりを潜めていた。薄く開いた唇から呼吸が漏れて、幼くも思えた。羅依は同じように机に伏せて、瞬の寝顔を見つめた。迷い込んだ風に色素の薄い髪がそよぐ。羅依は風を真似て、彼の髪に触れた。やわらかく、指先に吸い付くような潤いがあった。彼の頭を撫でるように髪を梳き、指の腹で耳をなぞった。
浜辺でのことを思い出し、羅依は手を引っ込めた。
『お前は自分を責めないでいてくれるか』
そう言った瞬の声を、羅依は寸分違わず耳の奥に繰り返す。いっそ責められたいと請うた瞬間に突き放され、羅依は居場所を失った。たとえ瞬の歩む道が人道に外れようとも、彼の見つめる先に自分の姿が映らなくとも、それでも彼に巻き込まれ歩みたいと思った。寂しさという絆で結ばれてみたかった。
細かい粒子になって漂うほのかな明るみに、瞬の頬が痩けて見えた。羅依は眉根を寄せて彼の頬に手を滑らせた。まるであの日のように冷たい肌だった。
今度こそ彼が目覚めない気がした。不安が羅依を急き立てる。
「瞬」
呼びかけに瞬の瞼が震えた。すぐに隙間から深緑が覗く。夢と現実を彷徨うような眼差しで、瞬は羅依を見つめた。目を細めて微笑む。羅依は息が止まる思いだった。今にも消え入りそうな儚さと揺るぎのない美しさが、瞬の表情に混在する。羅依は彼の色めく瞳に誘われ、乾いた薄い唇に触れた。瞬の熱が感じられて、背中が震えた。思わず逃げようとする羅依の手を、瞬の手がやんわりと引きとめる。爪がこすれるほどの微かな愛撫が羅依の心を揉み解した。瞬は手繰り寄せるように指を曲げ、羅依の手を自身の口元に引き寄せた。羅依が抵抗を見せないままいると、瞬は安心したように再び目を閉じ眠りに落ちた。
繋がれた指先に互いの熱が交わる。背後では風が霧散して二人のそばに零れ落ちる。羅依は爪先で椅子を動かして、瞬の体に沿うようになって目を閉じた。頬に笑みが残る。夢で四方を囲まれても、次は繋がれた体を頼りに空へ飛べた。
(2006/03 アンケート参加お礼)
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