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 流れ着く果てに

 それはいつもと変わらない夜だった。
 薄暗い店内、くぐもる声、曖昧な音楽。そこに平然と座っていられる自分は、やはりどこか狂っているんだろうと、亜須久はぼんやりと思う。
「あ、いたいた」
 そう声をかけられ、亜須久は視線をあげた。しかしそこにいたのは全く見知らぬ男だった。少ない光を吸い込むような銀色の髪が、よく目立っていた。
「あんたが亜須久だろ」
「誰から聞いた」
 亜須久のポリシーとして、紹介のない人間には薬を売らないようにしている。
「周防からだよ。奴とはちょっとした知り合いでね」
 銀髪の男は亜須久の隣に腰掛け、頬杖をつく。近くでみると、男の瞳は血のように赤い。
「何の用だ」
「今日はもう、上がるのか」
「そんなことは関係ないだろう」
「いや、実はある男にこいつを渡してほしいんだ」
 そう言って男が取り出したのは、手のひらに納まるほどの小瓶だった。中には何か黒いものが見える。
 男はそれを亜須久の前に置き、席をたつ。
 亜須久は焦って顔を上げた。
「待て、そんなこと俺の仕事じゃな……」
「すまん、もうすぐここに来るだろうから、そいつに渡してくれないか」
「勝手に困る。おい、待て!」
 男はすり抜けるように人波を横切り消えていく。亜須久が立ち上がった頃には、もうその姿は店内のどこにも見当たらなかった。
 仕方なく亜須久は座り直し、残された小瓶を眺めた。中に入っているものは、この暗さでは判別がつかない。しかし、瓶を振ると中で左右に動いた。
 それから、長くは待たなかった。
「おい、お前」
 低く野太い声が背後からした。しかし亜須久は振り返らない。どうせ酔っ払いが暴れているのだろうと思っていた。
「そこのお前だ。こっちを向かんか」
 声は一段と大きくなった。店内が一瞬にして静まり返った。
 亜須久は仕方なく、振り返る。
「その手にあるものを、渡せ」
 男は分厚い手を亜須久に差し出す。それを見てから、亜須久は男の顔をしっかりと見覚え、瓶を渡した。男の手の上では、より一層瓶が小さく見えた。
 亜須久はその瓶の中身が何であるのか気になっていたが、この男に直接聞くほど愚かではない。用事は済んだ。亜須久は今夜の仕事を打ち切ろうと、席をたった。
 しかし、男に強く腕を掴まれた。今までに経験したことのない桁外れの腕力だった。まさか千切れそうだ。
 亜須久は痛みに顔を歪めた。見上げると男は髭をたくわえた口元に笑みを浮べていた。動物的な直観が危険を告げる。逃げろ、と。
 その時、一斉に店の明かりがともった。それまでの何倍もある光が彼らを押し包む。突然のことに、亜須久は視力を奪われた。
「犯人はこっちだ!」
 髭の男が声を荒げた。大勢の足音が近づいてくる。朦朧とする意識の中、亜須久は駆けつけた警察隊に拘束されてしまった。抵抗しようと体を動かした時には、髭の男はもういなかった。
 そして亜須久は、その日のうちに国家警察の牢へと投じられた。
 理由は何度聞いてもわからなかった。
 しかし警察は何度もこう言った。
『この凶悪犯め』
 あの瓶が何か関わりがあるのは確かだった。亜須久は叫んだ。
「あれは俺のものじゃない!」
 しかしどんなに叫んでも、彼の声が届くことはなかった。次第に亜須久は全ての希望を失った。
 周防が引き取りにくると思っていたが、全くそのような気配はなく、せめて翔華が会いにきてくれはしないかとも思ったが、叶わなかった。

 そして、牢に繋がれて七日が経った深夜、亜須久の目にも明らかなほど運命が動き出した。

 冷える体を抱き締めて、亜須久は浅い眠りについていた。
「……い」
 ふと、何か聞こえた気がして、顔を少し上げる。しかし、彼の周りには相変わらず湿った石と鼠の腐敗死骸があるだけだった。気のせいだと思い、再び眠りにつく。
「おーい」
 今度ははっきりと聞こえた。亜須久は顔を上げて、壁を見上げた。そこには小さな申し訳程度の格子窓がついている。目を凝らす。知らぬ間に立ち上がっていた。
 何かが動いた。
「誰だ」
 亜須久は小声で問う。すると、窓の向こうに頭が出てきた。
「ようやく気付いてくれたんか。ちょっと、ここで喋るんはしんどいねんけど、まぁええわ。俺の名前は不破や。よろしゅう」
 亜須久にとって、初めて聞く魔族訛りだった。不破と名乗った男は、どうやら腕力一つで格子にしがみついているらしく、次第に顔が歪み始めた。
「話は、あとでええか」
 そう言われても、何の話か亜須久には見当もつかなかった。亜須久は頷く以外になかった。
「ほんなら、この壁の下から五段目、右から八段目の石を叩いてくれへんか」
 自分で判断する材料を持たない亜須久は、不破に従うほかなかった。言われた通り、石を叩いた。すると、勢いよく石は外へと抜け落ち、それより上に積み上げられていた石が一斉に崩れ始めた。
 細かい砂塵が吹き上がり、轟音が耳を塞ぐ。亜須久はとっさに目と喉を庇ったが、少し吸い込んでしまった。喉の奥がざらざらした。
「ほら、こっちや」
 煙る向こうに、男が手を差し伸べて立っている。その向こうには森が広がっていた。ここは小高い丘に建てられていた。
「誰だ、お前は」
「せやからさっき言うたやん」
「そんなことを聞いてるんじゃない」
「いやまぁ、あのな、一応お前をここから助け出すために頑張ってん、俺もな。だからさ、とりあえず来てくれや」
「しかし」
 亜須久は正直怖かった。この先、何があるのかわからない。自分はどこに流されるのかと、不安で仕方なかった。
 突然、不破は笑い始めた。
「難儀なやっちゃなぁ。ええやないか、何回も終わりかけた人生なんやろ」
 不破の言葉は相手に対して失礼だったが、亜須久は不思議と嫌な感じを受けなかった。素直に頷く。
「ほんなら、これが最後や。騙されたと思って来てみぃへんか」
 背後からは足音が近づいていた。脱走だ、と口々に叫んでいる。音に気付いた警備隊が来たのだ。
「はよ」
 不破は地団駄を踏んで亜須久を急かす。
「いたぞ!」
「俺を騙すと高くつくぞ」
「なんぼでも出したるがな」
「よし、お前に騙されてやろう」
 背後から銃弾が打ち込まれる。亜須久は身軽な動きで瓦礫の山を飛び越えると、地面に手をつき結界を作った。
「何してんねん」
「炸裂させる」
「はぁ?」
 素っ頓狂な声を上げる不破を横目に、亜須久は何重にもなる結界を作り上げる。最初は様子を窺っていた警備隊が、撃ち込みを再開した。
「逃げるぞ」
「俺は元よりそのつもりや」
 二人は丘を滑り降りる。夜露に濡れた草花が彼らを手助けした。
 亜須久は森の入り口まで来ると指を鳴らした。凄まじい爆音がして、結界が弾けとんでいく。
「派手なことしよって」
 隣で不破は困った顔をしていたが、亜須久はとても清々しい気持ちだった。
 流されるのは構わない。騙されたって構わない。それでも最後は自分で決めたかった。
 何に流されるのか、誰に騙されるのか。
 自分で選んだものなら、誰を怨まなくてもいい。
 生まれてくることを選べないのなら、せめて、そのあとは自由に。

 二人は一夜のうちに森を抜け、橙亜国から消えた。


(2004/12/05〜2005/03/04 WEB-CLAP)

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