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 真夜中の光で

 夜が満ちていた。雲のない日はより一層透明で濃く、空が冴えた。
 由稀(ゆうき)は屋上に寝転がり空を眺めていた。
 天に向かって手を伸ばせば、指先が溶けて消えそうな闇だった。世界に触れているようで触れていない感覚が、由稀にある種の官能を覚えさせた。千切れそうなほど腕を遠くへ伸ばし、必死に世界と繋がろうとする。けれど世界は微笑みだけを残して指先をすり抜けていった。
 由稀は腕を落として、大きくため息をついた。
「これで何日目だよ」
 脚を高く上げ、反動で起き上がる。辺りには他に高い建物がないので、世界に一人取り残されたような気持ちになる。国境にある山々の稜線が夜空に波打っていた。
 由稀はもう一度ため息を吐き出すと、頭を抱えてうな垂れた。
「これで五日目だってんだよ」
 そう言って由稀は屋上を見渡した。同じ国内でも、この辺りは雪が降らない。そのため雪の滑りがいい屋根はなく、登ることもないのか柵がない。周囲には雨樋が張り巡らされていた。建物は石造りの頑丈なものだった。屋上の真ん中には鉄の板がはめられている。これが屋内と屋上を結ぶ唯一の扉だが、錆びて開けることは不可能だった。
 由稀は雨樋と屋上の間に足の甲をはさみ、そのまま壁伝いにぶら下がった。いくつかの窓が並んでいる。窓は全て外に開くものではなく、内側の金具をつまんで押し上げる種類だった。それは由稀にとって、割らなければ入れない窓の一つだった。手の届く最上階の窓をもう一度念入りに調べてみるが、結果は変わらなかった。頭に血がのぼるので、由稀はえび反りになって腕を組んだ。
「どうにか入る方法は」
 そこまで言って、由稀の呟きは喉に押し込められた。金具の軋む音が下から聞こえたのだった。由稀は空色の目をこらして、音のした方を探る。真下にある窓から、細く白い腕が伸びて出てきた。由稀は再び壁を這うようにぶら下がると、窓枠の上部に手をかけた。足を隙間から引き抜く。そのまま勢いに任せて、由稀は窓の中へと押し入った。小さな悲鳴を抱き込んで、由稀は部屋の中へと飛び込んだ。すぐに起き上がろうとしたが、足に痛みが走り由稀は顔を歪めた。
「だ、誰」
 体の下から聞こえた声に、由稀はそこに人がいたことを思い出した。暗がりで顔は判然としなかったが、声は玲妥と同じくらいの少女のものだった。少女は体を震わせて、ひどく怯えた様子だった。
 由稀は痛みも忘れて、少女の上から飛びのいた。
「ご、ごめん。そんなつもりじゃないんだ」
 少女は座り込んだまま体を引きずって、由稀から距離を取った。壁際から、暗い瞳をじっと注いでいた。
「いや、だからその、あの」
 言葉を重ねるほど、自分が追い込まれているように由稀は感じた。しかし黙れば更に窮地へ陥る気がして喋り続けた。
「ちょっと散歩しててさ。なんつーの、気が向いてふらっと屋根に登って、そしたら窓が開いたから、何かなぁっと思って。ほら、気まぐれな感じでさ。わかるだろ」
 由稀は身振り手振り話しながら、背中に冷たい汗を感じた。少女は微動だにせず、由稀を睨みつけているようだった。
 由稀はあぐらをかいて沈黙した。息を吐いて肩を落とす。
「どこから来たの」
 闇に消え入りそうな小さな声で少女は問うた。由稀は顔を上げた。
「何。どこって言ったのか」
 聞きづらいので腰を上げて近付こうとすると、少女は壁にへばりついた。
「ごめん、聞こえないよ」
「家はどこ」
 まだ幾分か小さかったが、はっきりした声だった。由稀は再び座り込んで、少女を安心させるためにも両手を後ろについて、上体を少しそらした。
「ラルマテアって知ってるか」
「もちろんよ。馬車で丸三日かかるところだわ。散歩で来るようなところかしら」
 口早にそう言うと、少女は手を伸ばし、すぐそばにあった本棚から一冊の本を取った。表紙を由稀に向ける。
「ここでしょう」
 暗がりで由稀には見えなかった。体を乗り出すと、少女はまたも逃げようとする。
「いい加減にしてくれよ」
 さすがの好奇心も折れた。由稀は立ち上がると少女に一瞥向けることなく、窓に足をかけた。少女は慌てて本を投げつけた。
「いてっ」
「教えて、雪の上ってどんな感じなの」
「そんなの、自分で確かめりゃいいだろ」
 由稀は床に落ちた本を手に取って、ほのかに射す真夜中の光に晒した。表紙にはラルマテアの街が描かれていた。しんしんと降り積もる雪の様子が巧みで、由稀は思わず見入った。
「すげぇな、これ」
「でしょう。私の大好きな写真師さんなの」
「写真師って、人相描きだけじゃないんだな」
 中は写真と名所紹介が載っていた。どれも頁が繰りやすく、少女がどれだけこの本を読んでいるのか容易に推察できた。
「ほら。大事なものなんだろ」
 由稀は本を少女の方へ差し出した。しかし少女は立ち上がって取りに来ようとしない。
「おい」
「教えてよ。雪の上って、どんなの」
「だから」
 呆れ果てた由稀は深いため息をついて、本をその場に置こうとする。
「歩けないの」
 少女の声は雪のように冷たかった。由稀は体中が固まったように動かなくなった。屈みかけていた姿勢のまま、少女を見遣る。少女は腕の力で窓辺まで体を引きずった。
「雪の上を歩いたら、音はするの。するならどんな音なの。食べてみたことはあるかしら。甘くておいしいんだろうな」
 少女は由稀の手から本を抜き取る。いとおしげに表紙を撫でた。
「小さいときに馬車に轢かれたの。それから足が全く動かない。たくさんのお医者に診てもらったけど、誰も治してくれなかった。父様と母様は私が退屈しないように、この部屋の本を全て買ってくれたわ。欲しいと言えば、すぐに揃えてくれた。でも、私をどこかへ遊びに連れて行ってくれることは、なくなったわ」
 窓から染み出す光に、少女の姿が照らされる。日焼けのない真っ白な肌に琥珀色の瞳がよく映えた。
「不恰好な私を連れるのが嫌なんだわ」
 言葉を紡ぐ唇は雛の羽毛のように淡い色をしていた。瞬きするたびに目元に光が揺らめく。由稀は少女の睫毛の長さに見とれた。
 由稀は無意識の内に少女へ伸びていた手を思いとどめ、口を開いた。
「雪の上、歩いてみるか」
「え」
 少女は目を丸くして由稀を見上げた。すぐ近くに少女の顔を目の当たりにして、由稀は体を逸らした。
「話を聞いてなかったの。私は歩けないのよ」
 驚きは怒りに移り変わっていく。少女は本を胸に抱いて由稀に背を向けた。由稀は少女の肩を掴む。
「俺が担いでやるよ。お前を背負って俺が雪の上を歩く」
「何言ってるのよ」
 振り返った少女の髪が指をなぞり、由稀は手を離した。
「大丈夫。そうしたらきっと、お前にも雪の感触が伝わるよ」
 由稀は息を飲み込んで少女を直視した。緊張で首筋が固まった。
 少女は由稀の空色の瞳を覗き込む。夜の景色が似合わない彼に、少女は出所の知れない信頼を覚えた。彼の空色を陽の光の下で見つめたいと思った。
「本当なの」
「俺がここで嘘ついても仕方ないよ」
「あなたの背中で感じられるかしら。雪を」
 少女は由稀の腕に手をかけた。本が膝から滑り落ちる。由稀は大きく頷いて笑った。
「全身で感じられるよ」
 由稀は少女の手を取って握った。強く握った。折れてしまいそうな繊細さを包むように握った。少女は頬を染めて微笑んだ。
「約束するよ。俺がもっと大人になったら、絶対にまた来るから。それまでに、行きたいところ全部書き出しておいて。俺が連れて行ってやるよ、どこへでも」
「私、本当に待つよ。いつまでだって待つんだよ」
 少女の言葉に由稀は笑顔を返す。真夜中の光が二人を優しく囲んだ。由稀は彼女の手をそっと離した。
「それまでに、この窓を少し入りやすくしておいてくれよ」
 由稀は片足を窓枠にかける。少女が名残惜しそうに手を伸ばした。由稀はその指先にわずかに触れて、夜空を見上げた。
「また、あっちの方から来るから」
 そう言って由稀は飛び降りた。少女は驚いて窓枠に体を乗り出した。地上で手を振る由稀の姿が見えた。軽い身のこなしで彼は塀へと走っていく。少女はいつまでも空色の消えた方向を見つめていた。


(2006/08/16〜2008/07/06 WEB-CLAP)

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