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ネリオズ宮殿には、官吏や使用人らが利用する食堂が、中庭の見える好立地にあった。それぞれの身分によって利用できる時間が異なっていたが、出される料理の質は平等で、毎日どんな時間でも混雑していた。
だが、朝食には遅く昼食には早い時間だけは、喧騒とは無縁の静けさが食堂を包んでいた。この時間帯だけは、宮殿で働く者は誰も忙しいのだという。厨房に近い席では、料理人たちが賄いを口にかきこんでいた。
「ええなぁ、ええ時間やわ。これぞ究極のリラクゼーションってやつやな」
「不破が言うと、いかがわしい、いや、わざとらしいですけど、まぁでもそうですね」
「トゲ! トゲ発見!」
不破は指先で何かをつまむ真似をして、加依の目の前に押し付けた。そのやり取りを見て、玲妥は腹を抱えて笑った。不破は満足げに鼻息を荒くした。
「ふふふ、やはり俺の芸の前では誰もが笑い上戸……」
「だって不破って、ほんと変なんだもん」
「変っ」
「あ、えと」
玲妥は大きな目をそらして、言葉を探す。
「ほら、面白いってことだよ。特に魔族の言葉がいい感じなんだよね」
「さすが玲妥ちゃん、ええとこわかってるわ! ほれ、加依も訛れ」
「どうして俺を巻き込むんですか」
横目で不破を睨み付け、加依は白い器を口に運んだ。やわらかな湯気が舞うセイル茶は、砂糖がなければやや渋みがあった。
「ねぇ、加依はどうして魔族っぽい話し方じゃないの」
「せやねん。こいつ、生粋の魔族っ子のくせしてなぁ」
「生粋じゃありませんよ、母は魔族じゃありませんから」
「あほか、俺なんか魔界に行ったことないねんぞ」
自慢げに言って、不破は髪をかき上げた。
「かっこつけるところじゃないでしょう」
加依の表情は苦笑というより、失笑に近かった。
「これでも子供の頃は一応、訛っていたんですよ。そういう言葉しか知らなかったわけですから」
「そっか、そうだよね」
玲妥は自分の器の中に砂糖の塊を二つ落とした。白い砂糖はセイル茶の中でみるみる溶けて、見えなくなった。
「玲妥くらいの年のときに、俗界出身の人から影響を受けて、すっかり訛りは抜けました」
「こいつのすごいところは、俺がどんなに方言でまくし立ててもつられへんところやな。かつて使ってたんなら尚更つられるもんやで。強情なやっちゃ」
「意志が強いんです」
加依は芳しい潮の香りのように爽やかな笑顔で不破を閉口させた。
「私、聞いてみたいなぁ、加依の訛り」
「駄目ですよ、別料金ですから」
「風俗かいな」
「そういえば、羅依は少し話せるらしいですよ」
「え、なんで」
「母さんから教わったみたいですね」
「へえぇ」
感心したような口振りの玲妥だったが、頬は緩んで、目は妙に鋭くなっていた。加依はそれを敏感に察知した。
「何かに火をつけてしまったようですね」
「聞きたい! 絶対かわいい!」
玲妥は加依の手を取り、目を輝かせた。その上に不破の手も重なる。
「おもろそうやな。俺も参加するで」
「羅依のことだもん、聞きたいって言ってもそう簡単に聞かせてくれないでしょ。何か策を立てないと」
「悪い子ですねぇ。協力したら、俺は訛らなくてもいいんですかね」
「いいよ、取引しよ」
期待に満ちた玲妥の顔を見返して、加依は目を細めた。
「だったら、俺にいい案があります」
「おそろしい話になってきたな」
「不破も協力してくださいね」
逃げかけた不破の手を、加依はもう片方の手で強く握った。不破は思わず顔を歪めた。
「俺な、こういうのって脅迫って言うんやと思うわ」
「人聞きの悪いこと言わないでください。間違えないで。不破の方から参加するって言ったんですよ」
潮の爽やかさと思われた微笑みは、荒々しく人を呑み込む津波になった。
会議室の窓からは、空の青と海の青とが滲んで見えた。境界は、何ものも曖昧だった。
誰もいなくなった部屋の、簡素な椅子にかけて、瞬は窓から空を見上げた。茜は弓菜と街へでかけた。見送る自分の中に、明言しきれない幸せの感触があった。たとえすぐそばに彼女がいなくても、同じ世界に生きているだけで、全てが輝いて見えた。空はいつも、目にした瞬間が最も澄み切っていた。昨日の後悔も明日への絶望も、海の藻屑に消えた。
再びこんな生き方ができるなんて、思ってもみなかった。
「ありがとう、茜……」
外の廊下に気配を感じ、振り返ると扉が開いた。控えめに引いた扉の隙間から、羅依が顔を出す。
「あれ、兄貴は」
「さぁ、ここには来てないが」
瞬は会議室に漂う煙に気付き、窓を開けた。風が緩やかに入り込み、煙と混ざり合っていく。
「おかしいな。ここに来るように言われたんだけど」
羅依は部屋に一歩踏み込み、見回した。中央には大きな机が陣取り、壁際は本や資料の箱がうずたかく積まれていた。
「なんのために、こんなとこに」
「わ! 羅依早いね!」
羅依の背中に玲妥が飛びついた。
「玲妥、あたし兄貴に呼ばれたんだけど、何か話があるのかな」
「うん、あのね、今度魔界に行くでしょ。だから不破が魔族の方言、教えてくれるんだって」
「え」
羅依は頬を染めて、体を後ろにひいた。
「や、やだよ。そういうの。大丈夫だってば、大体知ってるし」
「そんなことないよ。ちゃんと事前の準備が大事なんだよ」
玲妥は離れていこうとする羅依の手をしっかり掴み、離さない。相手が玲妥では羅依も乱暴なことはできなかった。
「あ、感心ですね。もう来てくれてるなんて」
「どういうことだよ、兄貴。って、あれ」
加依の姿を見て、羅依は次の言葉をうっかり忘れた。窓際から、瞬の忍び笑いがする。
「形から入るんです、俺は」
そう言う加依は、黒ぶちの眼鏡をかけ、手には差し棒を持ち、いつもは緩くまとめた髪をきっちり束ねていた。
「もちろん、伊達眼鏡ですよ」
「なんだ、お遊戯会でも始まるみたいだな。俺は失礼するよ」
瞬は椅子から立って部屋を出ようとするが、その前に不破が立ち塞がった。
「まぁまぁ、見ててくれや。ギャラリーは多い方が燃えるもんや」
「随分と自信があるようだな。楽しませてくれるのか」
「当然やないか。悶えるほどにな」
不破は口の端を吊り上げ、不気味に笑った。
玲妥に背中を押され、羅依は中央に置かれた椅子に座らされる。加依はいつの間にか設置された黒板の前に、不破はその横の椅子に、玲妥は羅依から離れた場所に座り、瞬は開放した窓のそばで煙草を咥えていた。
加依はひとつ咳払いをした。
「では今から、魔族方言講座を始めます」
「え」
「受講者の羅依さん、用意はいいですか」
「ちょっと待ってよ、あたし一人なの? どうして、兄貴は」
「こう見えて、俺は一応ネイティブですよ。この格好で気付いてください、俺は教える側です」
「そんな、じゃあ、あたしだけでやんなきゃならないのっ?」
「はい」
羅依は兄の微笑みに言いくるめられて、がっくりとうな垂れた。
格技場で体を動かした由稀は、空腹に耐えかねて食堂を訪れた。先客には紅がいた。
「もしかしてお前寝起き」
普段から覇気のない顔は、一層生気がなく、鏡面仕上げの冷たい卓に頬を押し当てていた。
「んあ」
由稀の呼びかけにやや顔を上げるも、不明瞭な挨拶をして再び卓に戻る。由稀は呆れながら隣に座った。
「そいやさ、他のみんなは。姿が見えないんだけど」
「俺が知るわけないだろ」
「まぁ、それもそうか」
近くに茶器を探したが見当たらないので、厨房の窓口で一式を受け取り席に戻る。茶葉が開くのを少し待ってから器に注ぐと、淹れたての香ばしい香りが立った。紅が頭をもたげた。
「俺も」
「わかってるよ。ほら。寝起きにはいつもこれなんだろ」
由稀は紅の器に砂糖を三粒放り込む。
「そうそう」
「まったく……そうそうじゃねぇよ。自分でやれよな」
「お前がやった方がうまい」
紅に悪びれる様子はなく、幸せそうに茶を飲む。小言を口にしつつも、由稀は機嫌よく茶を注いだ。給仕をしていると故郷が懐かしく、自然と穏やかな気持ちになった。
「羅依と手合わせしようと思ってたんだけど、ほんとどこに行ったんだろな、あいつ」
「あ」
起き上がって窓の外を眺めていた紅が呟いた。
「ん、なんだよ」
「あれ、羅依じゃね?」
指差す先の中庭を、羅依が駆けていく。しかし空から降ってきた加依に両腕を掴まれ、拉致された。窓越しに、彼女の悲鳴が聞こえる。
「なんだ、あれ」
「さぁ」
「でもなんか、面白そうだな」
「同感」
二人は顔を見合わせて笑った。
「追うぞ」
器の底には、琥珀色の月が浮かんでいた。
同じ頃、宮殿のすぐ裏にある船着場で、漁師の手伝いをしていた亜須久は、空に浮かぶ大きな黒い羽を見つけて、言葉を失っていた。
「何をやってるんだ、あいつは」
受け取った網の中から、二枚貝がこぼれ落ちた。
黒く艶やかな翼は、宮殿海側の露台に舞い降りた。
加依の姿を追って、由稀と紅は会議室へたどり着いた。扉の少しの隙間から煙草の甘い香りが漂い、その甘美な麻薬に浸る気分を台無しにするように、不破の声が聞こえた。
「まずは、基本の挨拶からや。俺のあとに続いて言ぃや」
逃走に失敗して連れ戻された羅依は、大人しく椅子に座っていた。やや俯き、束ねた髪が肩から胸へ流れた。
「ええか。ほな、おはようさん。ほら」
「お、おはよう、さん」
小さな声は、掠れて震えていた。それを聞いて、黒板に字を走らせていた加依は、持っていた白墨を思わず折った。
「想像以上ですね」
「やばい。私、眩暈する」
玲妥は椅子の上で膝を抱えて、目を細めた。
「何だよ、二人とも! 何の話だよ!」
「ベタなんやけど、やっぱええわなぁ」
「不破まで!」
羅依は立ち上がって、地団太を踏んだ。
「どうせ、あたしの発音がおかしいんだろ。そんな風に、みんなで笑わなくてもいいじゃねぇか。教わったから知ってるけど、不破みたいに話したりはできないんだから」
暴れて乱れた前髪を押さえ、羅依は立ち尽くした。
「おい、泣くぞ」
窓際に立って煙草を吹かし、海を見つめて瞬が言った。その言葉に部屋の空気は凍りついた。羅依は小さく首を振る。
「泣かない。お前の前なんかで泣かない」
羅依は顔を上げて、瞬を睨み付けた。唇を噛み、堪える。瞬は外へ視線を投げたまま、相手になろうとしない。
加依は眼鏡を外して、きつく結んだ髪をほどいた。
「じゃあ、次で最後にしましょう」
「え。ほんとに」
「ほんとですよ。羅依を苦しませたくはありませんから」
「なんか、しゃあしゃあと言うとるで」
不破は顔を歪めて、目を眇めた。
「それじゃ、最後の練習はこれにしましょう」
加依はにこにこと笑いながら、羅依の腕を取って瞬の前まで引っ張った。
「え、なに」
「さっきのはあんまりだと思いませんか」
「は。何の話だ」
瞬は、ひどいのはお前たちだろうという言葉を飲み込んで聞き返した。加依はそれに気付きながら悪びれる様子なく、瞬の手をとって羅依の手に重ねた。
「さ。二人とも仲直りですよ」
「なっ、兄貴!」
羅依は素早く手を引こうとしたが、加依の手は頑なで離れない。見上げた瞬の顔は、困惑に曇っていた。
「言葉は自分で考えてくださいね。ちゃんと方言を使って、ね」
手の繋ぎ目にあった加依の指が離れていく。だが、羅依と瞬の手は、離れることはなかった。
羅依は言いかけて瞬を見上げるが、何度も躊躇い、頬を染めた。
「形だけでいいだろ」
瞬は気遣いのつもりで言ったが、羅依は首を振って、引き結んだ唇に決意を込めた。
「あ、えっと、さっきは堪忍やで。うち……、あそこまで言うつもりはなかったんや。ほんまやで。せやけど、ええで。もしうちのこと許されへんかったら、うちのことぶってかめへんよ」
淡紫色の瞳は恥じらいで滲む。瞬は、持っていた吸いかけの煙草を取り落とした。煙草は心細げな煙を伴って、窓の外へ消えていった。
「お前ら、悶えるってのはこのことか」
瞬はにやにやと笑う加依を軽く睨み付けて、俯く羅依の顔を覗き込んだ。手を強く握って、微笑を浮かべる。
「俺の方こそ、配慮が欠けてごめんね」
囁きは二人だけのものだった。羅依は耳まで真っ赤にして、瞬を見つめ返す。瞬は羅依の頭を撫でて、未練なく離れた。
「あまり、いじるなよ。不憫だ」
加依とすれ違いざま、瞬は深緑の瞳を妖艶に細めて釘を刺した。玲妥は、椅子にしがみついて、悶えていた。
瞬は扉を開けて、立ち止まった。
「まったく、馬鹿ばっかりだな」
そこには、由稀と紅の姿があった。由稀は無理矢理に笑顔を浮かべて手を振り、紅は由稀の陰に隠れて口を噤んだ。瞬は二人を一瞥して廊下を去っていった。
その背中を見送り、由稀は清々しく呟いた。
「瞬もさ、あれで結構おっさんなのかもな」
「子持ちだしな」
「お前が言うかよ」
由稀の笑い声は、下心も保身も無知も、全てを包み込んで海風に流していった。
青竜は、会議室下の植え込みの隙間から、どこまでも続く透徹した空を見つめていた。雲がないと平坦なように思える空にも、濃淡はあった。混ざり合った様々な風合いの青を見つめて、青竜は自分の胸にある炎が徐々に熱を増していることに気付いた。
「久暉様、私はあなたのためなら何物も惜しまないのですよ。見てください、この熱い信義を……って、あつい!」
金切り声を上げて青竜は上着を脱ぎ捨てた。背中には指が通るほどの穴が開いていた。足元から甘い香りが立ちのぼった。短い草の中に、燻った煙草が落ちていた。
「これは、この煙草は!」
会議室を見上げる。
「鬼使、どこまで私の計画を、志を愚弄すれば気が済むのですか。覚えておくがいい、そのうちに痛い目に遭うのはあなたたちなんですから」
靴で煙草の火をもみ消す。額から汗が流れた。青竜は薄笑いを浮かべて、その場から離れる。彼の背中には、小さな火傷が残ったのだった。
(2008/06 border-SKY4周年記念)
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