[ 目次 ]

 道化師の涙

 壁際にはうずたかく荷物が積み上げられていた。天井からは燭台が三つ吊り下げられ、時折、火種が風に抗う咆哮を上げた。狭い部屋には真新しい木箱の匂いと黴臭さが混ざり合い、淫靡な香りがした。小脇に抱えられるほどの大きさの木箱には、印が焼き付けられていた。亜須久はその中から一日前の日付が捺された箱を取る。
 木箱の中には、器用に折った包み紙が詰まっていた。黒く艶のある机に箱を置き、亜須久は包み紙を一つ手に取った。掌の上で、結びを解く。中には少量の粉末が入っていた。白く細かな粉だった。亜須久は指先を軽く押し付け、舐めた。舌に慣れた痺れが走る。あとから、喉に絡まるような甘い香りが広がった。
「いいだろう」
 亜須久は包みを手早く元通りにし、箱の中に放り込んだ。横に立つ男が小さく安堵の息を漏らした。それを横目に見て、亜須久は鼻で笑った。
「さっさとこのくらい覚えてくれ。俺も暇じゃないんだ」
「あ、すまない」
 男は口篭もるように言って、木箱の蓋を閉めた。手が滑り、蓋が机から落ちる。男が急いでそれを拾い上げると、今度は弾みで箱の中身をひっくり返した。男は大量の汗をかきながら、亜須久に頭を下げ続ける。亜須久は言葉をかけてやることなく、男の不器用に、混濁していく自分の心を重ね見た。
 梗河屋へ来て、十年が過ぎようとしていた。あんなに憎んだ薬も、あんなに嫌だった仕事も、全てが今の日常へと摩り替わっていた。薬を捌いていても、金を回収に行っても、暴れる心を遠くから静観するしか出来なくなっていた。そして今もまた自分の心の首を絞めた。心は喘ぎながら薄れていった。
 背後の扉が軋みながら開いた。風が忍び込み、燭台の炎は警戒の叫びを激しく上げた。
「夜上さん、ちょっといいですか」
 顔を覗かせたのは、数週間前に入ってきた若い男だった。亜須久とはそう歳が変わらないので、数日前に配下につけた。雑務を嫌がらずにこなす、使いやすい部下だった。
「どうした」
「あの、少し厄介な男が来まして」
「客か。一見か」
 亜須久は荷積みの男を中に置いて、部屋を出た。廊下の床には真っ赤な絨毯が敷かれ、白い壁には細い筆で流線が描かれていた。壁際には、等間隔で背の高い燭台が置かれている。緩い光に照らされた壁は仄かに浮き上がっていた。
「いえ、総長に会いたいそうで」
 まだ少年の面影が残る顔に、大人びた困惑がよぎる。亜須久は彼を一瞥して、玄関へと足を向けた。
「約束は」
「ないそうです」
「名は」
「名乗りません」
 男は亜須久の斜め後ろを、同じ早さで歩いていた。亜須久は肩越しに振り返り、顔をしかめた。
「なぜ俺に言いに来た。さっさと追い返せ。出港の時間が迫ってる」
「はい。わかってはいるんですが、どうも嫌な予感がするんです。かなり、できる男です」
 その言葉に亜須久は立ち止まった。男はじっと亜須久を見上げてくる。燭台の明りに揺れる瞳を覗き込んで、亜須久は勘の強いこの男を信じることにした。壁にもたれて、懐から手帳を取り出した。
「今、総長は」
「お部屋へ行ってみたんですが、お姿が見当たらないんです。一応、他も探してはみたんですが」
「事務方は何か知らないか」
 亜須久は手帳を繰りながら、心当たりを探してみた。客以外の関係者は人数こそ多いが、約束もなく面会に来るとなると限られていた。
「聞いてみましたが、何も」
「そうか。まぁ大方は店に行ったんだろうがな」
 亜須久は失笑をこぼした。男が妙に黙り込むのを肌で感じたので、考える振りをした。
「どんな男だ」
 亜須久は手帳を閉じて、窓から夜空を見上げた。雲ひとつない、豪奢な空だった。
「外套を着込んでいまして、よくわからないんですが、もしかしたら魔族かもしれません」
「訛りでもあったか」
 窓に映る自分の姿が見えて、亜須久は視線を逸らした。こんな顔を自分とは認めたくなかった。人間風情のからくり人形のようだった。
「それはないです。暗くてよく見えなかったんですが、目の色がちょっと違う気がしたんで」
 男は声を小さくして言った。彼の危惧の原因が亜須久に見えた。
「わかった。俺が会おう」
「あの、指示さえいただければ、俺が対応します。なにも夜上さんが出るほどでは」
 歩き出した亜須久の前へ進み出て、男は早口に言った。亜須久は闇より暗い瞳で静かに男を見下ろした。
「何かあったときに総長に言い分けができない。それなら最初から俺が行く」
 揺れることのない亜須久の目には、一喝するよりも強い力があった。男は何か言おうと口を開けたが、すぐに諦めて道を譲った。
「丹座におられるかもしれない」
「総長ですか」
「ああ、頼む」
 亜須久は口角を歪めるように上げて笑った。男は顔を輝かせて返事をすると、一礼して走り去った。背中を見送って、亜須久は再び玄関へ向かった。その顔にはもう微笑みの欠片さえ残っていなかった。
 広い玄関には、人だかりが出来ていた。亜須久が行くと、すぐに道が出来た。
「夜上さん」
「早く追い返した方がいいぜ。面倒なら消してもいい」
 近くにいた中年の男が耳障りな笑い声を混ぜて言った。亜須久は彼を追い抜いて、黒石を敷き詰めた玄関に降りた。大きな引き戸は半開きで、外の様子が見える。警備方が銃を構えていた。
「お前たち、仕事に戻れ」
 亜須久はそう言い残して外に出た。後ろ手に扉を閉める。風はわずかに冷気を含み、亜須久の髪を撫でていった。
 警備方の一人が亜須久に気付いた。
「夜上さん」
 顔には安堵の色が浮かんでいる。亜須久はその向こうに立つ人影に目を遣った。薄汚く分厚い外套で身を包み、顔も目元以外を布で覆っていた。亜須久は手で銃を押さえて下ろさせ、視線で後ろへ下がるように言った。外套を着た男が目を細めた。
「殺されなくて済むみたいだな」
 亜須久は男の顔を見て驚いた。目は赤く、そこにかかる髪は闇夜にも浮かび上がるほどの銀髪だった。話には白色症というものがあると聞いたことがあったが、まさか本当にいるとは思わなかった。
「用件を聞こう」
 動揺を奥にしまって、亜須久は平然と問うた。男は手を上げた。亜須久の背後で銃を構える音がする。男は顔の大半を覆っていた布を取り去った。晒された銀髪は、ありったけの光を吸い込んで輝いていた。
「周防に会いたいんだが、いないのか」
「今は外出中だ。用件を聞いておこう。俺が伝えておく」
「別に、特に用事はない。近くまで来たから寄っただけだ」
「では、お引き取り願おう」
「はは。よく教育の行き届いたことだ。だけど、君が出てきた以上、こっちとしても期待をしてしまうんだけどね。違うかな」
 男の声は低くもなく高くもなく、耳に馴染みやすいものだった。敵意や悪意は全く感じられない。ただ、それは気味悪さにも繋がった。
「条件がある」
 亜須久は腕を組み、目を閉じた。
「一つ、これが最初で最後だ」
「構わないよ。今度からは約束取り付けるし」
「一つ、俺の結界の中に入ってもらう」
 亜須久は伏しがちに目を開けた。背中に動揺が伝わってくる。組織の中で亜須久が術を使えると知る人間は少ない。亜須久は無視することで彼らの困惑に応えた。
 目の前に立つ銀髪の男は、短く口笛を吹いた。
「いいよ」
 そう聞くや否や、亜須久は地面にしゃがみ込み、片手をついた。息が詰まり、体がよじれるような幻覚を見る。顔を上げると、男は赤い目を細めてにこやかに微笑んでいた。
「丈夫な結界だな」
 亜須久は男の賛辞を聞き流して、玄関の扉を前にして横に曲がった。混乱を避けるため、庭から屋敷へ上がる。後ろから足音がついてくる。亜須久は喉の渇きに気付いた。ひどい緊張状態にいる。額には汗が浮いていた。
「大変な役回りだ」
 男はどこかしら楽しげに言った。
「そうか」
 亜須久は憮然として答えた。
「たまには周防に文句のひとつでも言ったらどうだ。あいつがいない間は君が切り盛りしてるのだろう。あいつは人使いが荒い。根性も悪い」
「随分なことを」
 掴み所のない男の雰囲気に、亜須久は早くこの場から解放されたいと願うようになっていた。
「もっとひどいこと思ってるくせに」
 そう言って男は結界に指で触れた。亜須久は背中を撫でられるような薄気味悪さを覚え、振り払うように振り返った。男はとぼけるように眉を軽く上げた。
「当たったかな」
「死にたいか」
「君にはまだ負けないよ」
 男の手が結界へと伸びる。亜須久は殴りつける勢いでその手を掴んだ。
「やるなら、正々堂々とやらないか」
「戦いに正攻法などない。そんなことは君たちがよくわかってるだろう」
 男の視線が亜須久から逸れる。亜須久はそれを追って、振り返った。すぐ後ろには周防がいた。鼓動が止まった。
「梗河さん」
「その手を離せ、亜須久」
 氷のように冷たく、刃のように鋭い周防の目が、亜須久の体を凍てつかせる。すぐに男の結界を解除する。それだけでは不十分と考え、言い分けをしようと口をあけたときには、頬を強く殴られた。口の中に血が弾けて広がる。痛みで体が溶ける。指はあっけなくほどけた。膝が崩れて、亜須久は廊下に座り込んだ。立て続けに腹を蹴り上げられる。憎しみや嫌悪などの感情すらなく、ただ殴られ、ただ蹴られる。痛みだけが体を重くし、抵抗する気概など生まれることはない。亜須久には周防が飽きるのを待つしかなかった。黒く艶のある革靴で、肩を壁に押し付けられる。肉に靴が食い込む。亜須久は長い前髪の奥から、死んだ魚のような目を周防に向けた。
「何か言いたげだな。なんでも言ってみろ」
 周防は無表情のまま、亜須久の肩を踏みにじる。亜須久はあまりの痛みに歯を食いしばった。悲鳴だけは何があっても上げない。泣いたところで何も変わらない。終わらない。骨が、砕けそうだった。
「まぁまぁ、そのくらいにしておけよ」
「躾は大事だ」
「壊れたら、どんな躾も無意味だ」
 銀髪の男は、にこやかな笑顔で亜須久の髪を掴んだ。無理矢理に顔を上向かせる。唇の隙間から、血が伝った。亜須久に逆らう気力はなかった。
「君に全てかかってるんだ。よろしく頼むよ」
 血色の目が、亜須久を射抜く。頭の奥が痺れて、睨み返すつもりが虚ろに見つめるだけに終わった。男は静かに微笑んで、亜須久から手を離した。二人の靴音が遠ざかっていく。亜須久は力なくうな垂れて、無造作に放り出された腕と脚を見つめていた。手の甲と腿が服を挟んで触れ合う。どちらも自分の体であるが、その関連性は亜須久に感じられなかった。他人の体が触れているようだった。
 掌に、血が落ちる。涙のようにぽつぽつ落ちる。
 疑問を持てば、頭がおかしくなりそうな現実で、自ら道化師になった彼を責められる者は誰もいなかった。しかし彼自身にはわかっていた。いつまでもこのような生活が続けられるほど、自分は強くも弱くもないと。
 いつか逃げ出せるという淡い期待が、彼の心を苛むことはあった。だがそれを失うと自分がどの方向にも揺らがなくなるのではないかと、亜須久はそれが怖かった。あの男のように、心の機微など素知らぬ顔で、人を殺してしまうのではないかと。周防を、殺してしまうのではないかと。殺すときは、世界に溢れる全ての憎悪を吸い込んで及びたい。
 口を開けると、唾液で薄まった血が溢れ出た。
 亜須久は指と指の間に溜まった血を見て、無表情な笑みを浮かべた。道化師は道化師らしく、踊り続ける。それが生きるということだった。


(2006/10/13〜2009/03/14 WEB-CLAP)

[ 目次 ]

Copyright (C) 2004-2011 Kumagorou All Rights Reserved.