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羅依は廟所の端に腰を下ろして、日なたを見遣った。日なたといっても、天水の光はか細い。廟所の屋根が作る影は、乾いた土の上に曖昧な境界を滲ませるだけだった。
だが羅依はそこに明らかな隔たりを感じていた。
彼がいる場所は、いつだってどこだって、遠い。
「瞬……」
口の中で、声にならない呟きをもらす。ため息のような呼びかけは、風に攫われてすぐに消えた。
千切れそうな光のせいで、瞬の背中が震えて見える。無言の嘆きが伝わってくるようだった。
以前にも見たことのある背中だ。
「あ……」
息絶えた茜を抱きしめていたときと、同じ背中だ。
羅依は体ごと廟所を振り返った。整然と並ぶ柱を見遣って、ここに茜の名が刻まれることはないのだろうかと思う。少なくとも、建てられる柱は空っぽになる。
急に背筋が冷たくなった。羅依は息をとめて廟に背を向けた。
強い風の音が、時折潮騒に思える。体の中に、波が押し寄せる。羅依は重いため息を吐き出した。
あのとき、アシリカの海で、彼を助けた自分は間違っていたのだろうか。
羅依は何度も繰り返してきた問いをまた重ねた。
たとえ命を繋いでも彼の世界が停止すれば、それは生きているとはいえない。瞬にとって世界の歯車は茜ではなかったか。茜だけが、失意のうちの瞬をこの世に繋ぎとめられたのではないのか。
ならばいま生きている瞬は、どうやって生きているのだ。
彼は、いま、生きているのか。
『だったらお前に背負えるのか』
さきほど瞬に言われた言葉を思い返す。羅依は脚をかかえて、膝のあいだに額を乗せた。肩をすくめて、小さくなる。
背負わせてくれるのなら、背負いたかった。
目を閉じると、瞬の眼差しが脳裏に浮かんだ。ずっと追い続けてきた眼差しだ。背負う罪の重さが、深緑の輝きをいっそう濃くした。彼の瞳は誰よりも美しく、誰よりも悲しい色をしていた。
たたんでいた足を伸ばして、地面に滲む光へ爪先を向ける。だが、寸前で竦んでしまった。
瞬に追いつきたい。
けれども、追いつけない。
彼がどんなに業を負っていようと、闇をまとっていようと、羅依にとって鬼使・瞬という存在は、一筋の光明だった。
幼い日に母を喪い、羅依はひとりになった。冷酷で無為な世界を生き抜くためには、手段を選んでいる余裕はなかった。男のなりをして賞金首を追う日々は虚しく、その日の獲物を探し求める獣のようだった。あの頃の羅依は過去も未来も信じられず、今という時ですら曖昧で、時間が通り過ぎるのをただ諾々と待っていた。
そこに鬼使があらわれた。怒りを覚え、羞恥に苛まれ、世界に色彩がよみがえった。霞んでいた世界が一気に晴れた。
羅依は瞬を追うことで前を向くことができたのだ。
だからこそわかる。瞬から荷を奪ってはいけない。
彼をこのまま生かしたいなら、荷という世界との繋がりを残すしかない。たとえ瞬が生きることを投げ出そうとしても、繋がりが彼を許さないように。そう、あの海のように。
残酷な願望だ。その自覚はあった。
許されるなら、彼が背負う罪を、隣で支えて歩きたかった。それを瞬に伝えたかった。瞬もそれを待ってくれていると信じていた。けれど羅依には、最後の一歩が踏み出せなかった。どんな形でも彼に生きていてほしい願いが、もう一つの願いを踏みつぶしたのだ。
服のあちこちから、花を摘むときについた、青いにおいがした。体の底に容赦なく突き刺さる、無神経なにおいだった。とたんに、喉の奥からこみ上げてくるものがあって、羅依は必死にそれをこらえた。息をとめていると苦しさがまさって、鼻の奥がつんとした。かたく目を閉じてやり過ごす。涙だったのかもしれない。
寄せた足元に視線を落とす。羅依は肩で大きく息をついた。
「どうかしましたか」
頭上から声が降ってきて、羅依は慌てて顔を上げた。いつの間にか、すぐそばに陣矢が立っていた。
「あ、いや」
「気分がすぐれないのなら、城で休んでいかれますか」
「大丈夫、大丈夫です!」
勢いよく立ち上がると軽い目眩がしたが、腹に力を込めてなんとか持ちこたえる。陣矢はそれを見透かしているようだったが、静かに笑って羅依の主張を立てた。
「わかりました。では行きましょうか」
甘い香りが風に乗って運ばれてくる。風上を振り向くと、瞬がいた。瞬は羅依の視線を受け止めると、小さく頷いて歩き出した。羅依には、帰ろうと聞こえた。
瞬のあとを追って、再び廟所の中を横切る。気を抜くと、足元から立ちのぼってくる冷たさに、生命を引きずられそうになる。斜め後ろには陣矢の気配があったが、羅依は構わず早足になって瞬に追いついた。隣に並ぶのは憚られたので、一歩うしろを歩く。
瞬の横顔を後ろから見上げる。いつまでだって、見ていたくなる。もっと色んな表情を見てみたくなる。
「瞬」
呼びかけに、瞬が肩越しに羅依を見下ろした。眉を軽く上げ、何事か問う。
「ううん、ごめん。なんでもない」
振り向いてほしかったとは、言えなかった。
羅依は首を傾げる瞬から逃れるように、彼を追い抜いて先を歩いた。見られているかもしれないと思うと、背中が緊張でこわばった。規則的についてくる瞬の足音を聞いているだけで、彼がいまどんな仕草で、どんな表情で歩いているかが想像できた。羅依は彼を感じていたくて、わざと足音をずらして歩いた。
廟所の門を陣矢に開けてもらい、さきほど下ってきた道をのぼる。
振り返れば海のように広がる砂漠があった。風に流される髪を手で押さえ、羅依は砂の海に目を奪われた。
砂漠には、何もない。
海のように世界を覆っているのに、砂漠には広がりが感じられない。ただそこに在るだけだ。波間のきらめきも、干満の変化も、底の見えない恐ろしさも、何もない。
ただ、何もないのにそこに在り続けられることが、羅依にはひどく神秘だった。
砂はどこを目指しているのだろう。風に流され、ただそれだけなのか。
「羅依」
瞬の声がした。羅依は砂漠に後ろ髪をひかれつつ、足を踏み出した。
来た道を戻り、やがて城の回廊へとさしかかる。揃いの服を着た城仕えの女らが、壁際に寄って頭を下げた。陣矢は小さく頷いて応えたが、瞬はあからさまに不機嫌な様子で、そっぽを向いていた。羅依も慣れないこの場所から早く立ち去りたいと思うようになっていた。
門を開けてもらい外へ出ると、体から一気に力が抜けた。羅依は目立たないように伸びをして、灰色の空を見上げた。
「お嬢さん」
声に振り返ると、すぐ後ろに陣矢が立っていた。
「陣矢さん、ありがとうございました」
案内してくれたことに礼を言って、羅依は小さく頭を下げた。
「それはいいんですよ。こちらこそ、ありがとうございます」
「え」
「瞬を連れてきてくれて」
「ち、違います。別にあたしが瞬を連れ出したわけじゃなくて」
「でも彼は、あなたがいたから来られたんだと思いますよ」
「まさか……」
羅依は卑屈に呟いて、陣矢から視線をそらした。持て余した視線の先に、瞬を探す。だが見渡せる範囲に、彼はもういなかった。陣矢を振り返って、ほらと言おうとすると、背の高い彼が腰を屈めてそっと羅依に耳打ちをした。
「瞬を、お願いします」
「そんなの……」
頼まれても困ると無下に断ることはできなかった。間近で見た陣矢の眼差しは、何もかもをわかっているようだった。
「市場を通るのなら、はぐれないように。あなたの言葉は天水の市民には通用しませんから。しっかりと瞬を離さないで」
肩を掴まれ、背中を押される。羅依はたたらを踏みながら前へ歩き出した。
「お気をつけて」
後ろから陣矢の声がかかる。振り返って手を振ると、大きく振り返してくれた。羅依は長い髪を払って、瞬を追った。
城から続く緩やかな下り坂には、来るときには見られなかった露店がずらりと並んでいた。兵士の見回りは坂の下の市場より厳しいようだが、客足は多く盛況だった。
羅依は廟所にいたときのように、瞬の少し後ろをついて歩く。だが人通りが増えるにつれて、徐々に瞬との距離が開きはじめた。すれ違う人々が、不思議そうに羅依を振り返っていく。赤ら顔をした中年の男が大きな声で何か言っていたが、羅依には男の言葉がわからない。ただ、あまりいいことでないことは、男の顔を見ていてわかった。
たやすく傷つくような心根ではないと思っている。どんな中傷も今まで跳ね除けてきた。しかしそうしようにも、相手の言葉がわからなければ、跳ね除けようがない。
羅依は思わず立ち止まり、赤い顔をした男に歩み寄った。何を言ったのか聞き出そうと口を開いた瞬間に、頭の上に何か軽い感触が当たった。
人いきれのなかに、甘い煙草の香りがする。
「少し、じっとしていろ」
瞬は束ねられた羅依の髪を手に取り、向こうが透けて見えそうな薄布で包み込んだ。端を器用に結び、額にかかる前髪も布の内側に寄せて入れた。
「瞬……」
「お前の髪は目立ちすぎる。このくらいでちょうどいい」
耳元で口早にそう言うと、瞬はほろ酔いの中年男を眼鏡越しに睨みつけたようだった。二言、三言を交わすと、男は急に黙り込んで、羅依からも顔を逸らした。
「ほら、羅依」
瞬に腕を引かれて歩き出す。羅依は布がめくれないように手で押さえ、引かれるままに歩いた。
薄布は濃い青紫に染め抜かれて、羅依の薄紫の髪をうまく隠していた。
「なあ、瞬。どこでこれを」
問いかけは聞こえているはずだが、瞬は答えようとしなかった。もう一度、問いを重ねようとしたときに、色とりどりの布地を扱う露店が目に入った。見本に吊るされた布のなかに、似た質感の薄布がかかっていた。天幕が影を作り、遠目に色はわからなかったが、羅依には同じものだという確信があった。
手首をつかむ瞬の手が、わずかにこわばったのだ。
羅依は何も訊かずに、瞬に寄り添って坂を駆けた。追い抜くこともできたが、我慢をして半歩さがる。
追いつけないのではない。
追いつかない。
『だったらお前に背負えるのか』
絶対に追いついてやらない。
それが羅依の答えだった。
いつまでもこの距離で瞬の背中を、横顔を見上げていたい。
それが羅依の光だった。
(2010/07/07 アンケートお礼)
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